研究室

西ドイツマックス・プランク生物物理学研究所

Max-Planck-Institut für Biophysik (MPI-BP)

テーマ:酵素固定化膜の物理化学的性質

ことの始まり


1977年3月、東工大大学院の鈴木周一研究室で博士課程を修了しましたが、アカデミックポジションはなく、海外のポスドクのポジションを探すことになりました。博士論文の一部を投稿して掲載された雑誌、”Journal of Membrane Science”の編集長であったHarry Lonsdale博士に、ポスドクの受け入れ先を紹介してくれるようお願いしたところ、米国の大学と西ドイツのマックス・プランク生物物理学研究所(Max-Planck-Institut für Biophysik、MPI-BP)を紹介してくれました。米国にはこれからも行く機会が多々あろだろうと思い、ドイツに行くことにしました。


当時、マックス・プランク研究所は西ドイツ国内に50あり、その中の生物物理学研究所、脳科学研究所、ヨーロッパ法制史研究所の3つがフランクフルトにありました。MPI-BPは物理化学、生理学、細胞生理学の三つの部門から構成されており、私が行くことになったのは物理化学部門です。物理化学部門の長は所長でもあったReinhard Schlögl教授で、この部門のWolfgang Pusch博士の研究室で研究することになりました。Pusch先生の研究テーマは海水淡水化に用いる逆浸透膜の製造法と機能評価であり、セルロースアセテート膜やポリアミド膜の物理化学的な性質を研究されていました。


方針


Pusch先生は逆浸透膜のような受動輸送膜だけでなく、生体膜のような能動輸送膜にも関心を持たれ、そのモデルを人工膜で実現できないかと考えておられました。生体膜における能動輸送には酵素が関与しています。そこで、酵素を固定化した人工膜を作りその性質を調べるところから研究を開始しようということになりました。


経緯


酵素を固定化する担体膜として、この研究室で最もよく性質が調べられていたアセチルセルロース膜を用いることにしました。なお、私の博士論文で取り扱った膜の担体もアセチルセルロース膜です。固定化する酵素としてウレアーゼを選びました。ウレアーゼは非電解質である尿素を分解して、電解質であるNH4+とHCO3-とCO32-を生成するので、膜内でこのような反応が起こった場合に、膜の物理化学的な性質がどのように変化するかに興味が持たれました。


ウレアーゼ固定化膜を濃度の異なる電解質溶液間に設置し、膜電位と膜抵抗を測定しました。膜の両側に等濃度の尿素溶液を添加すると、膜電位は急上昇し10分以内に定常値を示します。一方膜抵抗は減少し、やはり10分以内に定常値に達します。そこでこのような膜電位や膜抵抗の変化がどのようなメカニズムで起こるのかを探るため、膜内でウレアーゼ反応が起こる際に膜内で生成するイオンの分布や移動を理論的並びに実験的に求めることにしました。


成果


(1)ウレアーゼ固定化膜の膜電位のpH依存性


膜電位は膜のイオン的性質によって大きく変化します。博士論文で取り上げた光応答性膜は、光によって膜内の荷電状態が変わることを利用したものでした。担体となるアセチルセルロース膜(ACM)は電気的に中性と思われていましたが、Pusch研究室のDemish博士によって、わずかに存在するカルボキシル基のため弱陽イオン交換膜であることが示されていました。一方、ウレアーゼ固定化膜(UACM)は、ウレアーゼタンパク質を構成するアミノ酸の解離性残基により、両性弱イオン交換膜と考えることができます。弱イオン交換膜の場合、膜のイオン的性質にpHが大きく影響することが予想されるので、ACMとUACMの膜電位に及ぼすpHの影響を理論的に求め、実験的に求めた値と比較しました。その結果、膜電位のpH依存性を半定量的に説明できることを示しました。


(2)ウレアーゼ固定化膜内の酵素反応の速度論


UACMを尿素溶液に浸すと、尿素が膜内に拡散していき、ウレアーゼによって加水分解されNH4+とHCO3-とCO32-が生成します。そこで、UACM内の反応拡散系を理論的に取り扱った数理モデルを作り、そこに現れる各種パラメータ(膜への基質の分配係数、基質や生成物の透過係数、酵素反応のKmとVmax)を実験的に求めました。この結果に基づき、UACM内における基質と生成物の濃度分布と局所pHを推定しました。


(3)ウレアーゼ固定化膜の酵素反応に伴う膜電位と膜抵抗の変化


UACMの膜電位と膜抵抗の変化に及ぼす電解質濃度や基質濃度の影響を理論的かつ実験的に求めた結果、これらの変化は生成するイオンによって膜内のpHが変化し、膜の固定荷電が変化することに起因することを明らかにしました。


上記3編の論文を書き上げてPusch先生に提出しましたが、データの一部のみが本の中の短報(Pusch & Kato, 1982)として出版されただけでした。Pusch先生はご自分の実験データを山のように抱えており、その論文化に忙しくて私の論文にまで手が回らなかったというのが実情のようです。帰国後、私も投稿論文をまとめる時間が取れず、お蔵入りになってしまったのは残念です。


余談


<マックス・プランク生物物理学研究所>


MPI-BPは生体膜や人工膜の物質輸送に特化した研究を行っている世界的にみてもユニークな研究所です。初期は逆浸透膜など人工膜に重点が置かれていましたが、次第に生体膜の膜タンパク質の構造研究などにシフトしていきます。1987年分子膜生物学部門が設置され、Hartmut Michel博士が部門長になりました。翌年、Michel博士は光合成細菌が有する膜タンパク質複合体の三次元構造を決定したことでノーベル化学賞を受賞しています。その後、研究所の敷地が手狭になったため、2003年にフランクフルト大学のキャンパス内に移転したようです。


私が入所した時の研究所の本館は、昔実業家のお屋敷だったようで、研究所とは思えない趣の建物でした。隣に鉄筋4階建ての研究棟があります。


MPI-BP

<物理化学部門>


Pusch研究室にはドイツ人のポスドクH.-U. Demish博士と香港から来たポスドク李建林博士、フランクフルト大学の博士課程の学生が3人、テクニシャンが6人在籍していました。李氏はしばらくして米国に渡り、ポーランドからNikodem Chlubek博士がやってきて短期滞在し、私が帰国する前にインド人のポスドクと日本から箕浦憲彦博士がやってきました。


Pusch先生は膜の作製や各種測定をテクニシャンに任せ、ご自分はそれらのデータの解析を行っていました。テクニシャンの皆さんは朝早くから仕事を始め、夕方4時ぐらいには帰るので、私が7時ぐらいまで実験をやっていると、皆に早く帰れと言われました。ただ、これは物理化学部門であるからで、細胞を扱っている他の部門ではこうは行かなかったようです。


Pusch先生の研究室は、当時海水淡水化に用いる逆浸透膜研究のメッカと呼ばれていたようです。11月に東京で開催予定の国際水処理会議の準備のため、研究者のみならず米国、中東、日本の政府関係の方々も訪れており、Pusch先生はその対応でも忙しくしておられました。私にこの研究室を紹介してくださったLonsdale博士も米国から来訪されたので、お会いしてお礼を述べることができました。


私は物理化学部門で研究を行った最初の日本人でした。渡独する前に鈴木先生から、あなたの出来次第で今後日本人研究者を取るかどうかが決まると言われました。幸い私が帰国した後、何人か日本人研究者が在籍されたようです。その後、Pusch先生は何度か訪日されており、1990年には相模中研で講演を行ってもらうことができました。ただ残念なことに1992年にPusch先生は不慮の死を遂げられました。研究室のボスが辞めたり他所に移籍した場合、そのもとで働いていたテクニシャンも皆辞めなければならないということなので、テクニシャンの方々がどうなったのか気になっています。


<実験装置>


実験装置は工作室の職人さんが作ってくれました。帰国する時、私が使っていたものを記念にもらってきました。Pusch先生が設計されたもので、写真に示すようにアクリル製のかなり頑丈な作りの拡散測定用のセルです。逆浸透膜の透過実験では圧力をかけるので、機密性が保たれています。セル内の攪拌子は、外側に取り付けた水流で回転する磁石によって回転します。


Cell

このセルを恒温槽内に浸けて各種測定を行いますが、恒温槽を2台直列につないで温度誤差が±0.01℃に収まるようにするのには、さすがドイツであると思いました。恒温槽に取り付けてある温度計はもちろん標準温度計です。ただ、私の実験の場合、ここまで温度を厳密にコントロールする必要はありませんでした。


使用するガラス器具類は、洗い物係のおばさんによっていつもピカピカにしてあります。研究室内でちょっとしたパーティーを行う際、棚からこのビーカーを取り出してきて飲み物のカップ代わりに使うのには驚きました。


<部門内交流>


Pusch先生は郊外にあるご自宅から車で通われていました。出張が多かったり、自宅でデータ解析の仕事をされることが多いせいで、実験結果の報告をしようと思ってもなかなかつかまりませんでした。先生とは私の拙い英語でなんとか意思疎通を図ることができました。先生宅にはクリスマスの時やお客さんがいらした時、何度か招待され、お二人の娘さんたちと夕食を共にしました。


所長であるSchlögl教授は”Stofftransport durch Membranen”という著書で、膜輸送の研究者にとってよく知られた方です。私が唯一ドイツ語で読んだのもこの本です。Schlögl先生と直接研究の話をすることはありませんでした。ただ、ある日突然電話があり所長室に呼ばれました。Pusch先生と一緒に訪日する予定があり、日本語の勉強をしているので発音など教えて欲しいとのことです。何度かお相手する機会があり、何事にも真剣に取り組まれる先生のお姿にあらためて尊敬の念を抱きました。


テクニシャンの女性たちとは、私の付け焼き刃のドイツ語では通じないので、いつも身振り手振りで意思表示を行いました。器具の名前や薬品名はドイツ語が多いので通じました。彼女たちとは我が家に招待したり招待されたりして親交を深めることができ、生活上役立つ情報とか面白い旅行先などを教えてもらいました。皆既婚者なのですが子供がいません。その理由は、すぐ近くに東ドイツとの国境があり、将来の有事に対する不安があるからというものでした。当時はまだ冷戦の真っ只中で、ベルリンの壁が崩壊するとは思いもよらなかったのでしょう。博士課程の学生は兵役があるため皆私より年上でした。


研究室の行事として、森のハイキングがありました。出発地点まで車で行き、そこから森の中をひたすら歩くだけです。途中、レストハウスに立ち寄ってたらふくビールを飲み軽食をとった後、また歩くというものです。帰りはアウトバーンを飲酒運転で飛ばすことになり、冷や汗をかきました。下の写真は初めてハイキングに行った時のものです。右端がPusch先生です。


hiking

インド人研究者にはあまり良い思い出がありません。研究所が借り上げている部屋に引っ越した時、同じアパートの別の部屋に住んでいたインド人研究者が部屋を交換しないかと言ってきました。我々の部屋の方が環境が良いと考えたからのようです。また私と同じ研究室のインド人ポスドクは、研究に関して議論した後、関係ある論文を紹介するからそれを引用して、自分も共著者にしてくれと言ってきました。呆れ果てて即断りました。


<良縁・奇縁>


私が着任した時、生理学部門に鈴木慶二博士が在籍しておられました。3年間滞在されて11月初めに帰国されたので、約2ヶ月間、研究所でご一緒することになりました。鈴木氏の研究室は研究棟の3階にあり、私の部屋は同じ棟の4階にありました。鈴木氏はヘビースモーカーのようで階段でタバコを吸っている姿をよく見かけました。微小電極を使った研究をされていたようです。ドイツ語が堪能で、ドイツ人と不自由なくコミュニケーションをとっておられるのを見て羨ましく思ったものです。鈴木夫妻が帰国後、ご夫妻が住んでいたアパートの部屋に我々が移り住むことになりました。


鈴木氏は東京大医学部第一内科に戻られて研究を継続されました。その際ドイツでしか手に入らない材料が必要になったというので、こちらからお送りした覚えがあります。20年後、鈴木氏の同級生である矢野英雄氏に国リハでお会いすることになるとは奇縁です。


私の後にPusch研究室に来られたのが製品科学研究所の箕浦憲彦氏です。9月の終わりに奥さんと6ヶ月の娘さんと一緒に来られました。鈴木氏の時と同様、箕浦氏とも研究所で約2ヶ月間ご一緒することになりました。このように前任者とオーバラップする期間があるのは、お互い非常に助かりました。


<千客万来>


1年3ヶ月のフランクフルト滞在中、多くの方々がこの地を訪問されました。その筆頭は東工大大学院で私の指導教官であられた鈴木周一先生です。最初のご訪問は1977年9月で、フランクフルトから170km離れたBad Neuenahrで国際会議が開催された際に車でお迎えにあがり、我々のアパートに1週間滞在されました。研究所で講演された後、次の訪問地リヨンに向かわれました。この間、車でロマンティク街道のローテンブルクにご案内しました。先生の滞在中、偶然、製品科学研究所の仲川勤氏がPusch先生を訪ねてこられて講演されました。仲川氏は箕浦氏の上司ということですので、ここでの出会いが箕浦氏の来訪につながったのかもしれません。


鈴木先生は翌年の10月に、バイオ関係の欧州視察団の団長としてフランクフルトを再訪されました。研究所でご講演を行い、研究所の皆さんからは講演の内容が新鮮に思われたらしく好評でした。先生に昨年の講演より良かったですと言ったら怒られました。他の団員の方に研究所見学を募ったところ、お一人だけ参加されました。東ソーの橋本勉氏です。他の方々は観光に出かけました。この時鈴木先生が予言されたように、橋本氏は後にオルガノの社長になられました。


東工大の石川延男先生と大河原信先生も視察団の団長などでフランクフルトを訪れました。お二人は私がフランクフルトにいることを鈴木先生からお聞きになっていたようです。石川先生は私の卒論の審査員です。大河原先生はこの時の出会いが縁で、後に私を相模中研に紹介してくださいました。Pusch先生を訪ねてこられた村山義夫氏(造水促進センター)、木村尚史氏(東京大)、熊埜御堂洋氏(鳥取大)ともお会いする機会があり、Pusch先生の招待で会食したり、観光案内したりしました。皆さん水処理関係の先生方です。


以前、共著論文を出したことのある長村洋一先生(藤田保健衛生大)が、2月に渡独されてデュッセルドルフに滞在されていました。ドイツにいる間に会いましょうということで、9月に車で訪問し先生のアパートに泊めていただきました。奥さんと幼少の娘さん二人を連れてこられて大変だなと思っていたら、すでに車で2万km旅行されているとのこと、相変わらずエネルギッシュな生活を送られていました。


東工大の鈴木研で私と一緒に博士号を取られた佐藤裕幹氏が、スウェーデンのルンド大学に留学する途中でお寄りになり、我が家に1週間滞在しました。また、妻の友人である堀夫妻が新婚旅行で我が家に泊まっていかれました。ご主人が富士写真フィルムにお勤めということで、たくさんのカラー写真フィルムをいただき、その後多くの写真を撮ることができました。


要するにフランクフルトは地理的にヨーロッパの中心に位置し、旅行客の中継地となるので来客が多かったというわけです。


<アパート>


ポスドクなどが研究所に長期滞在するための宿泊施設として、近隣のアパートにいくつか部屋が用意されていました。ただ我々が行った時、あいにく空いている部屋がなかったので、研究室のテクニシャンたちが新聞広告を見て探してくれたアパートにとりあえず入居することにしました。このアパートは市の中心街にあり、買い物には便利なところでした。後で知ったことですが、近くにはその手のショップが多くあり、夜になると道に派手な身なりの女性が立っているというかなりいかがわしい場所でした。


生理学部門の鈴木夫妻が帰国したのち、夫妻がお住まいになっていたアパートに引っ越しました。マイン川の近くにあり、住所は、Im Meinfeld 17、22階建ての高層アパートの17階7号室と7ずくめです。2LDKですが各部屋はかなり広く、お客を泊めるのに十分な広さがありました。家具付きで家具の借り賃は支払う必要があります。鈴木夫妻が残していってくれた電気炊飯器は重宝しました。ベランダからの眺めはよく、真下にマイン川が流れており、遠くにフランクフルト大聖堂を望むことができます。フランクフルト空港が近く、森の上をひっきりなしに飛んでいる旅客機が見えました。


<自動車>


私は日本ではもっぱら自転車を愛用していたので、自動車の免許は持っていませんでした。ドイツは車社会なので免許が必要になると考え、渡独する前に自動車学校に通い、出国前ギリギリで免許を取得することができました。自動車学校では40km/hrのスピードしか出したことがないのに、ドイツに来ていきなり制限速度のほとんどない道路を走ることになりました。


鈴木夫妻が帰国する際、それまで乗っておられたBMVの車を私に譲るという話になっていたのですが、直前に事故で車が大破してしまいました。お二人は幸い軽い怪我で済んだようです。そこで、最初に住んでいたアパートの近くにある中古車販売店で、オペルのマンタという中古車を購入しました。最初は快調でアウトバーンで170km/hrまで出せたのですが、油漏れがしたりボロが出始め、最後はエンジンが壊れて動かなくなりました。オペルの修理工場でエンジンを交換してもらい、外見はともかく走行性能は新車同様になりました。


車は二つの意味で役に立ちました。一つは研究所を訪れる日本人のためのタクシー代わりです。研究所がフランクフルト空港と市内のホテルの中間に位置していたので、空港とホテルと研究所の間でお客さんの送り迎えをすることになりました。多い時は1週間毎日ということもありました。何人かの方はライン川下りやハイデルベルグに案内しました。


もう一つは、ヨーロッパ各地へドライブ旅行できたことです。西ドイツ国内はもとより、オランダ、ベルギー、スイス、オーストリアの美術館巡りをすることができました。総走行距離1万5千kmです。居間の壁に大きなヨーロッパの地図を貼り、すでに訪れた場所の上に小さな赤い紙を貼り付けておきました。鈴木先生が2度目に訪問された時、全面真っ赤になったこの地図を片付けるのを忘れてしまい、これをご覧になった先生が絶句されました。前年に先生を案内したヴュルツブルグとローテンブルグも赤くなっていたので、その意味するところはお分かりになられたと思われます。


<学会発表>


帰国して1年半後、山口大学にいた時、Pusch先生からサンフランシスコで開催されるアメリカ化学会大会で私の研究成果を発表するので、一緒に参加しないかというお手紙をいただきました。旅費は出してくれるとのこと、喜んで参加することにしました。出発直前になって、サンフランシスコのホテルのストライキのため、会場がラスベガスになったという電報を受け取りました。サンフランシスコからラスベガス行きの飛行機やホテルの予約なしに出かけましたが、なんとかラスベガスに辿り着き、Pusch先生や李氏と再会できました。


Pusch先生は急用ができたので先に帰国するとおっしゃり、代わりに私が発表するようにと言ってスライドを渡されました。こんなこともあるだろうと私も発表の準備をしていたので、事なきを得ました。この会議の発表をもとに出版された本に載せた論文(Pusch & Kato, 1982)が、MPI-BPにおける私の唯一の論文となりました。


帰国時、会場で出会った旧知の廣瀬幸夫氏(三菱油化)とおしゃべりをしながらラスベガス空港でサンフランシスコ行きの飛行機に乗りました。サンフランシスコ空港でスーツケースを受け取ろうとベルトコンベアの前で待ちましたが、廣瀬氏のスーツケースが出てきません。廣瀬氏の航空券を見たら、なんとロサンゼルス行きとなっています。同じ航空会社の飛行機だったので間違えて乗ってしまい、スーツケースはロサンゼルスにいってしまったというわけです。廣瀬氏は東部のラトガース大学に客員研究員として滞在していたので、のちにスーツケースはそちらに届けてもらったとのことです。今では考えられない出来事です。

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