ことの始まり
2000年にERATOプロジェクトが終了し、相模中研を退職して、次の行き先が決まり引越しの準備をしていました。そんな時、国立身体障害者リハビリテーションセンター(2008年に「身体」が抜けて国立障害者リハビリテーションセンターと改称)研究所の障害工学研究部長であった碇山義人博士が急逝されました。碇山氏は東工大鈴木研の後輩に当たります。そのような縁で、私が急遽、障害工学研究部長の跡を継ぐことになりました。
国立障害者リハビリテーションセンター(国リハ)は障害者の自立と社会参加を支援するために設置された厚生労働省管轄下の施設です。自立支援局、病院、研究所、学院の4部門からなり、医療・福祉サービスの提供から新しい支援技術の開発、専門職の養成までを行うという世界的に見てもユニークな機関です。研究所は、医学・工学・社会学の3部門からなり、さまざまな障害に関する多方面からの研究を行なっています。
研究テーマを決めるにあたり心がけたのは、この施設でなければできない研究をやろうということです。さらにヒト遺伝子に関わってきたこれまでの経験が生かせればそれに越したことはありません。当時、このセンターを訪れる方々がお持ちの障害の中で、遺伝子が関与しているものに、視覚障害と聴覚障害があります。その中で特に着目したのは、センターを訪れる視覚障害者がもっとも多く罹患している網膜色素変性症(Retinitis pigmentosa, RP)という遺伝性疾患です。そこで日本人RPの原因遺伝子を突き止めることを主要テーマとすることにしました。
方針
(1)既知原因遺伝子のゲノム解析
当時、RPの原因遺伝子については、19種類ほど報告されていましたが、日本人のRP患者については、ほとんどゲノム解析が行われていませんでした。国リハ病院の眼科には毎日RP患者が訪れていましたので、これらの方々の協力が得られれば、血液を提供していただいてそれからゲノムDNAを抽出し、ゲノム解析を行うことができると考えました。
(2)新規原因遺伝子候補の探索
まだ未知の原因遺伝子が数多く残されている可能性があるので、その候補を探索することを試みました。原因遺伝子のほとんどは網膜細胞由来なので、網膜細胞で発現している遺伝子を網羅的に解析し、網膜細胞に特異的に発現している遺伝子を候補とする戦略を立てました。
問題点と解決法
方針は決まっても、当時、国リハ研究所では遺伝子を扱う部門はなく、一から出発しなければなりませんでした。まず問題になるのは、設備、人員、資金をどうするかです。
最初に解決しなければならない問題は研究設備です。当時、国リハ研究所では遺伝子研究用の設備はありませんでした。ただ、碇山氏がRPの原因遺伝子探索を実施しようと考え、研究室の体制を整備しているところでした。クリーンルームは完成していましたが、遺伝子を扱うのに必要な機器類はまだ未整備でした。そこにERATOプロジェクトで使用したDNAシーケンサーをはじめとする遺伝子研究に必須の機器類を運び込み、外山滋室長の迅速な手配で、設備が整いました。また、組換えDNA実験やヒトゲノム解析の規定作成については、山内繁研究所長と事務官の方々のお力をお借りし、速やかに整備していただきました。
次に人の問題ですが、流動研究員として在籍していた大床国世博士が遺伝子組み換えの専門家であったことも幸運でした。さらに、近隣の東洋大と埼玉大の工学部から卒研生や大学院生を受け入れており、彼らが底力を発揮してくれました。また、当時国リハ付属病院の眼科部長であった簗島謙次博士にこの話を持ちかけたところ、全面的に協力して下さることになりました。すなわち患者さんの協力が得られ、さらに遺伝子診断に関心を持たれた医師の方々が研究に参加されることにより、臨床研究が可能になりました。その後、仲泊聡眼科部長、西田明美博士、岩波将輝博士、世古裕子博士が加わり、研究体制が整いました。
資金の面では、研究所の研究費でとりあえずは賄うことができました。その後、主に厚生労働科研費を獲得することによって、研究を推し進めることができました。完全長cDNAの大規模解析は、ゲノムネットワークプロジェクトの支援を受けることができました。
成果
(1)既知原因遺伝子のゲノム解析
(2)新規原因遺伝子候補の探索
余談
<良縁・奇縁>
眼科部長の簗島氏は早稲田大学工学部を出た後、順天堂大学医学部に入り医師になられたということで、その経歴に親近感を感じました。さらに、私が1977年から1978年まで在籍したマックスプランク生物物理学研究所のすぐ近くにあるマックスプランク脳研究所に、1979年から1981年まで在籍されていたと伺い驚きました。入れ違いなので、フランクフルトの街ですれ違うことはありませんでした。
矢野英雄学院長にご挨拶に伺った時、君のことを知っているよと言われました。なぜかと思ったら、矢野氏と東大医学部で同級生だった鈴木慶二博士から聞かれたとのことでした。鈴木氏は、私が渡独した時、マックスプランク生物物理学研究所に在籍されていた唯一の日本人(研究室は私とは異なる)で、丁度帰国されるところでした。鈴木氏が住んでおられたアパートの部屋に私と妻が住むことになりました。帰国される時、ご夫妻をフランクフルト空港まで車でお送りした覚えがあります。鈴木氏が乗っておられたBMVを譲るつもりだったのに、直前に事故で大破してしまい叶わなかったと話されていました。譲り受けた電気炊飯器は重宝しました。
所長秘書を務めていただいた戸村洋子さんのご主人が私と同郷で、私より一歳年下ですがなんと小中高と同じであることがわかり驚きました。