ことの始まり
網膜色素変性症の新規原因遺伝子候補を探索する目的で、新しく開発したベクターキャッピング法を用いてヒト網膜色素上皮細胞由来の細胞株ARPE-19から完全長cDNAライブラリーを作製し、高品質のライブラリーを作製することができました(K05-1)。
このライブラリーを用いてトランスクリプトーム解析を行い、ARPE-19の詳細な発現プロフィールを求めました(K08-1)。ただ、本来の目的であったARPE-19に特異的に発現している遺伝子はそれほど多くなく、網膜色素変性症の原因遺伝子になると思われるものも見つからなかったので、これまでもっとも多くの原因遺伝子が見つかっている視細胞由来の細胞株についても、発現プロフィールを求めることにしました。
経緯
ヒト視細胞由来の細胞株として、網膜芽細胞腫(レチノブラストーマ)Y79を用いることにしました。Y79は錐体前駆細胞に由来すると考えられています。Y79からベクターキャッピング法を用いて、3つのライブラリーを作製し、5’端の部分塩基配列決定によるトランスクリプトーム解析を行いました。
ARPE-19とY79の発現プロフィールを比較することによって、それぞれの細胞に特異的に発現している遺伝子を同定し、その中から網膜細胞特異的な遺伝子を選り分けるために、眼由来のESTデータと比較することにしました。
結果
Y79からも完全長率95%以上のcDNAライブラリーを作製できました。この中から任意に選んだ23,616クローンの5’端部分塩基配列を決定し、得られた19,229個の完全長cDNAクローンのクラスタリングを行なった結果、4,808種類の遺伝子からなることがわかりました。その中の2,595種類の遺伝子は、ARPE-19とY79のいずれのライブラリーにも共通に含まれています。
高発現遺伝子について、ARPE-19とY79から取れたクローン数を比較すると、それぞれの細胞の特色がわかります。Table 2とTable 3にARPE-19からあるいはY79からのみ得られた取得数上位の遺伝子のリストが載せてあります。これらのリストには、UniGeneデータベース(現在運用終了)に登録されていた各遺伝子のESTの総数(Nt)、その中で眼に由来するESTの数(Ne)、それらの比(Ne/Nt)も記載してあります。Ne/Ntの値が大きいほど、眼に特徴的に発現していることになります。
ARPE-19に特徴的な高発現遺伝子は、細胞骨格関連遺伝子と細胞外マトリックス関連遺伝子であり、上皮細胞由来であることを反映しています。ESTデータベースへの登録数が少ない希少遺伝子にもかかわらず、多く取れてきたのがNatriuretic peptide precursor B (NPPB)とIL18です。NPPBは心臓で特異的に発現している遺伝子であり、網膜由来細胞株で発現しているのは不思議かつ興味深い結果です。一方、Y79に特徴的な高発現遺伝子としては、GNB3とAIPL1のような網膜特異的遺伝子の他、神経細胞や癌細胞に特徴的な遺伝子が見られます。
高発現遺伝子の塩基配列を決める過程で気づいたのは、同じ遺伝子であっても取れてきたクローンが皆同じ配列を有しているわけではなく、多くの選択的スプライシングバリアントが含まれていたことです。AIPL1を例にとれば、得られた15クローンの全長配列を決定したところ、驚いたことに7種類の選択的スプライシングバリアントからなることがわかりました。その詳細については、別の論文(K13-1)で紹介します。
Table 4は、低発現のものも含めてESTデータから推定される眼に優先的に発現している遺伝子のリストです。ARPE-19だけから取れてきたものが11種類あります。いずれも他の組織でも発現しているので、特異性が高いとは言えません。興味深いことに歯のエナメル質の形成に関与しているタンパク質Amelotin (AMTN)が発現していますが、これはESTデータベースに2個(視神経由来と脳由来)しか登録されていない希少遺伝子です。これも予期せぬ結果でした。
一方、Y79だけからは58種類の遺伝子が取れてきており、視細胞に特異的に発現している主要転写因子やシグナル伝達関連の遺伝子が数多く含まれています。ESTデータベースとの比較により、特異性が高い希少遺伝子としては、CABP2とOTX20S1があります。当時Entrez Geneに未記載の希少クローンも10種類含まれています。
さらにY79ライブラリーには、32種類の遺伝子をコードする7kbp以上の長鎖cDNAクローンが含まれており、最長はDmx-like 1 (DMXL1)をコードする12.8kbpのクローンです。ARPE-19に含まれていた長鎖遺伝子であるFLNA (8.4kbp)やGOLGB1 (11.1kbp)の完全長クローンも含まれています。
ヒト網膜由来の細胞からこれだけ多くの完全長cDNAクローンを取得したのは、我々が最初であり、このヒト遺伝子コレクション(7,067種類の遺伝子、39,643クローン)は、網膜の研究者のみならず、ヒト細胞の研究者にとっても有用な材料を提供することになると期待されます。なお、論文に掲載された全クローンは、理研バイオリソースセンター(理研BRC)から入手可能であることを論文に記載しました。
余談
本研究は、東洋大学の大学院生であった押川未央さんを中心に、同大学院生の筒井千尋さん、池上智子さん、渕田祐樹さん、菅井佳子さんの精力的な解析によってなされたものです。彼らが担当した遺伝子の解析結果は、各自の修士論文の一部となっています。
疑問点
Q1 網膜以外の細胞に特異的に発現している遺伝子(例えばNPPBやAMTNなど)の網膜での機能は?
Q2 網膜に特徴的に発現している機能未知の遺伝子の機能は?
Q3 新しく見つかった希少遺伝子の機能は?
被引用文献
「Invest. Ophthalmol. Vis. Sci.」で、2015年以降のMetricsを見ると、2021年11月の時点で、PDFダウンロード数541とかなり見られていることがわかります。被引用数は、Google Scholarで検索した結果、現時点で15となっています。
被引用文献について、年代順に、国、研究機関、雑誌名、論文タイトル、被引用事項をリストにまとめてみました。なお、本論文に記載した完全長cDNAクローンを理研BRCから譲り受けて実施した研究論文も記載してあります。これらの論文では本論文を引用してほしいのですが、単に理研BRCから得たとしか記載していないものがほとんどです。被引用事項欄に分譲された遺伝子の名前を記載しました。
引用された内容は、選択的スプライシングバリアントの存在(R12068a)、転写開始点決定における完全長cDNAの有用性(R13054)、新規遺伝子RBSG3 (R17047)、Y79細胞の発現遺伝子(R18016、R18017)、網膜色素上皮細胞のトランスクリプトーム解析の例(R19034)です。
理研BRCから分譲されたクローンの用途は、細胞内発現に使用したもの(FLNC [R11028、R20044]、GRIN3B [R15084]、ABCC1[R16068a]、NPPC [R17049])、組換えタンパク質調製に使用したもの(FLNC [R11028、R20044]、FGF2 [R17048])、使途不明のもの(ABCC1 [R13068a]、GATA6 [R16067a])となっています。FLNC(9.2kbp)とABCC1(6.5kbp)は、長鎖のためPCRなどで簡単に調製できないため、本コレクションを利用したと思われます。