研究室

東京工業大学資源化学研究所

生物資源部門、鈴木周一研究室

Research Laboratory of Resources Utilization,
Tokyo Institute of Technology

テーマ:生体膜を模した選択的応答性膜

ことの始まり


卒業研究は合成化学科の笠井研で行いましたが、大学院では大学入学当時に望んでいたように生物に関する研究をやりたいと思うようになりました。そのような折、「化学の領域」という雑誌に、資源化学研究所の鈴木周一先生と相澤益男先生が書かれた「生物電気化学」という総説を見つけました。工学部で生物関連の研究を行っている唯一の研究室のようなので、早速鈴木教授にお会いして、修士課程に入れてもらえないだろうかとお願いに上がりました。ただ、すでに3人の修士枠はすでに埋まっておりました。それでもなんとかと入れて欲しいという私の無理な願いを聞いてくださり、資源研の他の部門である佐伯雄造研の修士枠をお借りして入れてもらえることになりました。鈴木先生、佐伯先生、そして快く移籍をお認めいただいた笠井俊保先生には、感謝の言葉しかありません。


方針


ちょうど助手になりたてであった相澤益男先生の指導のもとに研究を進めることになりました。研究テーマは学生の自主性に任されており、私は生体膜に興味があったので、生体膜の機能を模した人工膜を作製することを目指すことにしました。


経緯


修士課程で最初に試みたのはタンパク質の薄膜調製です。種々のアミノ酸を混合して加熱すると、重合してプロテノイドと呼ばれるポリアミノ酸が得られるというので、これで薄膜を作ることを試みましたがうまくいきませんでした。相澤先生から天然にあるタンパク質膜で実験をやってみたらという助言をいただき、鶏卵の殻の内部に付着している卵殻膜について、その構造と物質透過性を調べてみることにしました。その結果、卵殻膜は非対称構造を有しており、色素イオンの透過性にも非対称性を有することを明らかにしましたが、論文化には至りませんでした。


博士課程に入って、生体膜の機能の一つである光受容や化学受容を行う選択的応答性膜の作製を目標に定めました。生体膜の特徴は、リン脂質からなる動的な構造をとっていることと、その中に選択的な反応をする酵素や受容体などのタンパク質を含んでいることです。そこで、リン脂質を固定化した膜に感光色素を含有させた光応答性膜や膜に脂質抗原を固定化した免疫応答性膜の調製を試みました。その結果、膜内の感光色素のフォトクロミズムや膜表面に対するタンパク質の結合によって膜の荷電密度が変化し、膜電位応答をすることを明らかにしました。


成果


  • スピロピラン含有光応答性膜(K76-1K77-1K77-3
  • カルジオリピン抗原含有免疫応答性膜(K77-2K77-4
  • タンパク質結合膜の膜電位生成メカニズム(K78-1
  • 血液型判定センサー(K80-1

余談


<生物資源部門>


私が入った当時、資源化学研究所の生物資源部門は、鈴木周一教授、高橋不二雄助教授、八森豊助手、軽部征夫助手、相澤益男助手という人員体制でした。先代の水口純教授による「フォロワーになるな」という教えが徹底しており、高橋先生は人工酵素、八森先生は鰓のリン脂質、軽部先生はコラーゲン膜による酵素固定化、相澤先生は生物電気化学といったように、各自独自のテーマを持って先駆的な研究がなされていました。


大学院生に対する指導も同様であり、好き勝手なことがやれた反面、自分でテーマを探し全て自分で計画を立てて研究を進めなければならないという、初心者にとっては大変な面もありました。このような環境の中で、光に応答する世界初の人工膜の作製や世界で初めて免疫応答性膜というコンセプトの提言など、この分野における先駆的研究を行うことができたことは、私の研究人生のスタートとして大変幸運なことでした。


<良縁・奇縁>


先生方のみならず学生もバラエティーに富んでおり、ユニークな人たちの集まりでした。特に親交の深かった、私と同い年すなわち昭和24年度生まれが、編入組、浪人組、留年組を含めて3学年にわたって在籍していました(碇山義人、斎藤和昭、園部信幸、根本揚水、平野盛雄、松永是の各氏)。


以後、彼らとはいくつか接点がありました。碇山氏とは共著論文を出したりしていましたが、病気で亡くなられた後、国立障害者リハビリテーションセンター研究所(国リハ)の彼の研究部の跡を継ぐことになりました。私が国リハで遺伝子の研究を行うことになったとき、東京農工大におられた松永氏に遺伝子組換え実験安全委員会の委員になっていただき、私が退官するまでずっとお世話になりました。園部氏は、私が山形で結婚式を行なった時、友人代表として出席していただきました。その場で、義兄と知り合いであることがわかり驚きました。私がNIHに滞在していた時、たまたま園部氏と義兄がニューヨークに駐在しており、お会いすることができました。数年前から昭和24年前後生まれの方々を含めて同期会を開き、旧交を温めています。


同時期、博士課程に在籍しておられた3人の先輩方(宮村雅隆氏、南波憲良氏、佐藤裕幹氏)には刺激を受けました。詳しくは忘れましたが宮村氏の解析手法に感心した覚えがあります。私が山口大学にいた時、東芝におられた宮村氏に実験に使う光ファイバーを送ってもらいました。南波氏の緻密な研究の進め方を見て、見習いたいと思っていました。光応答性膜にスピロピランを用いたのは、南波氏の研究に触発されたものです。佐藤氏は病気のため休学されたので、学位論文は私と一緒の年に発表することになり、お互い励まし合いながら論文を仕上げました。結婚式で司会をお願いし、お得意の大声と手の振りでエールを贈っていただきました。私がドイツに滞在していた時、佐藤氏がスウェーデンのルンド大学に留学される途中、我が家にお寄りになったことも懐かしい思い出です。


<学長>


生物資源部門で特筆すべきは、鈴木周一先生(埼玉工大)、相澤益男先生(東工大)、軽部征夫先生(東京工科大)、松永是氏(東京農工大)と、4人の工学系大学(括弧内)の学長を輩出していることです。特に、相澤先生は東工大に生命理工学部を創設され、東工大を生命科学分野でも世界のトップになる基盤を作られました。ただ、資源化学研究所(現化学生命科学研究所)に鈴木研の伝統を引き継ぐ研究室が残らなかったのは残念です。


期間に長短ありますが、私と接点があった方々にも大学(括弧内)の学長になられた方が多くおられます。山口大学の時いつも議論していただいた村上悳先生(山口大)、山口大学の学生で一緒に輪講をした木梨達夫氏(関西医科大)、山口大学で特別講義をお聞きし神戸の研究室に訪ねて行ったことのある西塚泰美先生(神戸大)、NIHで一緒に研究を行なった河野公俊氏(産業医科大)、国リハの総長であった岩谷力先生(長野保健医療大)、私の友人のお兄さんでヒトゲノムプロジェクトでご一緒した小笠原直毅氏(奈良先端科学技術大)、ヒトゲノムプロジェクトでお世話になった榊佳之先生(豊橋技術科学大)の7人です。さて、学長になられた皆さんに共通するのは何だろうと考えてみると、有り余るエネルギーをお持ちの方ということになりそうです。あえて分けるとすれば、なりたくてなられ方と仕方なくなられた方になるでしょうか。


<大岡山での生活>


大学4年間は文京区にあった山形県育英会の寮から大岡山まで電車で通いました。大学院に入り寮から出なければならなくなったので、洗足池近くの一軒家に間借りすることにしました。当時、長髪で汚らしい格好をしていたので、大家さんに断られるだろうということで、卒論の時の指導教官であられた笠井先生が保証人として一緒についてきてくださり、部屋をお借りすることができました。


大学院に入ったのを機に、4年間床屋にいかずに伸ばし放題であった髪を切り、修士課程に在籍していた平野盛雄氏が切った髪を欲しいというので提供することにしました。平野氏はSH基を有する人工酵素の作製を目指しており、髪の毛のケラチンをその素材として用いることを考えていました。実験はうまく行ったようで、論文が出ています。活性が出たことに私の髪の毛が癖毛であったことが効いたかどうかはわかりません。


大岡山での生活の移動手段は自転車でした。ツーリング用の10段変速機のついた自転車を購入し、休みの日は多摩川の堤防を40kmほど走って足を鍛えました。飲みに行くのも自転車でというのは、ちょっと問題でしたが。軽井沢で行われた研究室の合宿や山形へ帰省する際も自転車を使いました。幸い事故には遭いませんでしたが、車の免許をとった後、自転車で車道を走るのはキッパリやめました。車の運転手から自転車はほとんど見えていないということがわかったからです。


大学一年生の時、各学生にアドバイスをする先生がつき、この先生に大学院まで進学したいと話したところ経済的基盤が必要と言われました。そこで、奨学金を受けるとともに、大学時代に始めた構造計画研究所でのプログラマーのアルバイトを続けました。さらに、家庭教師と代々木ゼミナールの模試採点などで稼ぎ、家からの仕送りなしに生活することができました。


夜はよく飲みに出かけました。行きつけの飲み屋が3つあります。一つ目は、大岡山駅北口近くの養老の滝で、同郷の仲間がいたり、安いということもあって、頻繁に訪れました。研究生として来ていた同い年の長谷川誠太郎氏(整水工業)とよくご一緒しました。二つ目は、資源研に最も近く学生の我々も気軽に入れる寿司屋、魚がしです。私はいつも緑色のウィンドブレーカーを着て訪れていたところ、4歳ぐらいの娘さんにミドレンジャーと呼ばれて懐かれました。三つ目は、西小山のカラオケスナックです。歌うのが好きな平野氏とよく訪れました。当時はまだ音楽はレコードによるものです。幼い子にモテた私と違って、平野氏はスナックの女性に大モテで、研究所まで弁当を作って持って来た女性もいました。


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