研究室

東京工業大学工学部

合成化学科、笠井俊保研究室

Department of Synthetic Chemistry,
Tokyo Institute of Technology

テーマ:アセナフテンのクロル化

ことの始まり


高校一年の時に分厚い大学案内を眺めていて、東京工業大学(東工大)の存在を知りました。理工学系の単科大学ということでこぢんまりとしたところが気に入り、化学系の研究体制も充実していそうなので、志望校を東工大一本に絞り受験し合格することができました。


当時、一年の時は学科に分かれずに全員一般教育を受け、二年に進級する時に希望する学科に配属されることになっていました。私は理学部の化学科を志望したのですが、夏休みの時九州に旅行していて、化学科に行くにはこの時試験があることを知らずにいたため化学科に行きそびれ、工学部の応用化学系に行くことになりました。応用化学系は、化学工学、合成化学、高分子化学、電気化学の4学科がありましたが、新しい物質を合成するのが面白いと思い合成化学科を選びました。特に有機合成に興味があったので、蛍光染料の合成を行っていた笠井俊保研究室に入ることにしました。


方針


笠井俊保先生から与えられたテーマは、アセナフテンのクロル化です。笠井研究室では合成繊維用蛍光増白剤として有用なジアルコキシナフタル酸イミド類の合成研究を行っていました。その出発原料がアセナフテンであり、中間体である5,6-ジクロロアセナフテンをいかに収率よく合成するかが課題となっていました。一年先輩である大木茂氏の指導のもとに、有機合成の基本操作を学びながら研究を進めることにしました。

アセナフテン

経緯


アセナフテンをクロル化すると10種類以上の副産物が生成します。そこでガスクロマトグラフィーによる成分分析、生成する可能性のあるクロル体の別途合成と単離、それぞれの化合物の元素分析、質量分析、UVとIRスペクトル解析、NMR分析による構造決定を試みました。その結果、ガスクロマトグラフに現れる多くのピークの同定が可能となり、これらの情報をもとにクロル化副産物の組成に及ぼす各種反応条件の検討を行いました。さらに、アセナフテンとそのクロル誘導体について、半経験的分子軌道法を用いてフロンティア電子密度をコンピュータで計算して求め、クロル化される部位を予測しました。


成果


アセナフテンをクロル化する際に生成する11種類の副産物の構造を決定することができました。目的とする5,6-ジクロロアセナフテンの収量を最も多くするための条件を検討した結果、副産物の生成を抑える最適な反応時間、触媒の種類と量、溶媒の種類を決めることができました。また、クロル化される位置を分子軌道法による計算結果と比較したところ、実験結果と合致するものと、合致しないものがあることがわかりました。これらの結果を論文化するには至りませんでしたが、日本化学会の春季年会で発表する機会を与えていただき、これが研究者として最初の学会発表となりました。


余談


<良縁・奇縁>


笠井研で研究全般の面倒を見ていただいたのは、助手の中森建夫先生です。中森先生とは、その後不思議な縁で再会することになりました。私は大学院で資源化学研究所の鈴木周一研究室に入ることになりました。その時ご指導いただいたのが、鈴木研の助手であられた相澤益男先生です。相澤先生は一度筑波大学に教授として移られた後、東工大にお戻りになられました。お戻りになられた講座が、笠井先生が退官した後の講座であり、そのため中森先生が相澤研の所属になりました。というわけで、中森先生とは今も相澤研の同窓会でお会いしています。


修士課程に在籍されていた中安一雄氏と谷中幹郎氏にもたいへんお世話になりました。のちに呉羽化学の生物医学研究所長になられた谷中氏からお呼びがかかって、呉羽化学の研究所で講演する機会を与えていただいたことがあります。


当時、東工大では理工学部として受験生を一括して入学試験を行い、合格者を一年時は一クラス50人程度のクラス分け(いろはで始まる組)をして一般教育を行っていました。私は「と組」に所属しました。この時、二人一組の学生実験で相棒になったのが小坂和夫氏です。小坂氏は数学科に入り整数論に取り組んでいましたが、なぜか大学院は東大の地学科に進まれ、日大文理学部の教授になられて、断層の研究をされたようです。私が鈴木研に在籍中、企業を退職して鈴木研に大学院生として入られた松岡英明氏(のちに東京農工大教授)から、小坂氏は日比谷高校の同級生であるという話を伺い、奇縁を感じました。


と組でもう一人気になる人物は宇田川憲一氏です。宇田川氏は東ソーに入社し、のちに東ソー社長になりました。その後、私が以前勤めていた相模中央化学研究所の理事長になられています。相模中研の創立記念祝賀会があった時お会いしましたが、私のことは記憶になかったようです。


<実験事故>


化学実験には事故の危険が付きまといます。私も笠井研で2度事故を経験しました。一つは塩化水素ガスを使ってクロル化反応を行っている時に、塩化水素ガスボンベが倒れ、ガスが吹き出した事故です。ちょうど梅雨時で湿度が高く、ガスが白煙化して窓から出て行き、まるで火災の様相を呈しました。すぐボンベの栓を閉めることができたのですが、全身に塩酸をかぶったような状況になりました。すぐシャワーを浴びたので大事には至りませんでした。ただこのため部屋中の金属が錆びたようです。実はこの後、部屋替えがあって、ここに移ってこられた研究室の方に大変迷惑をかけてしまったようです。


もう一つの事故は、ガスクロマトグラフィーでクロル化産物の成分分析を行っている時で、キャリアガスに使っている水素ガスが試料注入部から漏れていたようで、それに引火してカラムの覆いが吹き飛びました。幸い離れた場所にいたので怪我はありませんでしたし、すぐボンベの栓を止めたので火災にはなりませんでした。日曜日に一人で実験していた時に起こった事故で、笠井先生に連絡したところ青ざめて駆けつけてこられました。以後、キャリアガスとしてヘリウムを使うようになりました。


実験室の天井を見上げると、何箇所かに黒い汚れが見られました。ニトロ化反応の際、反応容器が爆発してできた跡との話を聞きました。私もニトロ化を行いましたが、幸い事故を起こさずにすみました。


<課外活動>


笠井研に入って驚いたのは、毎日夕方5時すぎになると、体育館に集合し卓球をやることです。また、夏になると研究室対抗の試合に備え、軟式野球の練習が待っていました。まるで、運動部の部活動のようでしたが、いずれも好きなスポーツだったので喜んで参加しました。研究室によっては、教授と一緒にジョギングをやらされるところもあったようです。


研究室対抗試合では、何ダースかのビールが賭けられており、皆必死に戦いました。この時は我々のチームが勝利をおさめました。投手をつとめた谷中氏が、大学時代野球部の投手であったそうなので、ハンディが必要だったかもしれません。ちなみに私はサードを守りました。試合終了後、両チーム一緒に宴会となりました。その席で、私が飲み過ぎて酔っ払いビール瓶の上に倒れこみ、右手を切って出血する怪我をしてしまいました。実は怪我をした記憶がなく、翌日研究室で目を覚まして手に包帯が巻かれているのに気づき、付き添ってくれていた中森先生に教えられて初めて知った次第です。東工大の塀に近接している中島外科医院に行ったところ、中島医師にお前は東工大で2番目にアホだと言われました。1番目は誰かとお聞きしたら、熱い鍋を抱いて火傷をして運ばれてきた人間と言われました。


<アルバイト>


大学ではデザイン研究会(デザ研)というサークルに入り、グラフィックグループでポスター作成などを行っていました。デザ研の多くの先輩たちが(株)構造計画研究所(構研)でアルバイトとしてコンピュータの夜間オペレータをやっており、その先輩の紹介で私も構研でアルバイトをやることになりました。


当時、構研に富士通の大型コンピュータが導入され、これを用いて計算を行うための各種ソフトウエアの開発が始まっていました。私は在学期間中プログラマーとしてのアルバイトを続けることを条件に、富士通の施設でFORTRANプログラム作成の講習を受け、その後、数多くのプログラム作成を行いました。プログラムとデータの入力はパンチカードを用いて行われ、パンチカードを作るキーパンチャーが活躍していた時代です。


卒業研究で分子軌道法による計算を行うことができたのも、このような環境が整っていたからです。半経験的分子軌道法のFORTRANプログラムは、本に記載してあったので、自分でパンチカードを作成しました。構研の大型コンピュータは、夜間使用する仕事がない時は、私のようなアルバイトに仕事以外でも使わせてくれました。この時の経験は、のちに山口大学で平滑筋の収縮に関するコンピュータシミュレーションを行った時にも役立ちました。


<山形県育英会学生寮>


大学4年間、小石川の伝通院の裏手にあった山形県育英会の学生寮で過ごしました。東京にある主な大学の学生が約50人ほど住んでいました。二人部屋で私と同室だったのは、山形東高の同級生で東大経済学部に通っていた渡辺徹氏です。渡辺氏は毎日勉学に励んでおられましたが、私は寮で出される食事も取らず、夜、寝るために帰るだけの生活でした。地下鉄丸の内線の後楽園駅で乗車、日比谷線、東横線、田園都市線を乗り継いで大岡山まで通いました。卒業研究に入ってからは、終電で帰ることもしばしばで、銀座からは多くのホステスや酔っ払い客が乗ってきました。神田の古本屋街が近いので、休みの日は古本屋巡りをするのが楽しみでした。この学生寮は平成20年に駒込に移転し、寮生はエアコン付きの個室で快適な生活が送れるようです。


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