エピソード

cDNAが繋ぐ良縁・奇縁

ヒト全cDNA塩基配列決定構想


1987年頃、相模中研においてGE研究室の後続プロジェクト案として、ヒトのタンパク質を全てcDNAの形で集めるというホモ・プロテインcDNAバンク構想を抱きました。これを具現化するための方策を考えていた時、1988年1月に文部科研費による公開シンポジウム「ヒト遺伝子解析計画と医学」が開催されたので参加しました。ここで東京大の和田昭允先生が科技庁のプロジェクトとして推し進めているヒトゲノムの全塩基配列を決定するためのロボット技術のお話をされました。次いで、自治医科大の香川靖雄先生が医学者の立場からヒトの全cDNA塩基配列決定構想を提案されました。世の中に私と同じようなことを考えている研究者がおられるので、是非コンタクトをとりたいと考えていました。


その後、香川先生が「細胞工学」という科学雑誌に「ヒト全cDNA塩基配列決定構想」という論文(野島博、岡山博人、香川靖雄「ヒト全cDNA塩基配列決定構想」細胞工学 Vol.7 No.4 p.304-308 1988)を寄稿されているのを見つけました。共著者は野島博博士と岡山博人博士です。その内容は私が考えていたホモ・プロテインcDNAバンク構想と類似したものでした。Okayama-Berg法で作製した完全長cDNAライブラリーの5’端塩基配列を決定してcDNAを分類し、ヒトcDNAのカタログを作製してから全長配列を決定するという構想です。そこで香川先生にお手紙を出して、9月に自治医科大に出かけて行き香川先生から直接お話を伺う機会を得ました。「細胞工学」の論文に対する反響は全くなく、私が反響第一号とのことでした。ちょうど自治医科大に導入したばかりの蛍光DNAシーケンサーを見せていだだき、これがあればシーケンスの問題は解決すると意を強くしました。当時、自治医科大におられた野島氏ともお会いし話を伺うことができました。


その後、東京大の和田先生のところに伺い、私のヒトcDNAバンク構想について話しました。このプロジェクトは大学や民間の一企業ではできないので、相模中研のような研究機関が仲立ちをして、産官学の共同プロジェクトにする必要性を強調しました。そこで、この問題に関心を持っている人たちが集まって議論しようということで、11月に会合を持つことになりました。和田先生、香川先生、大阪大に移られた野島氏、相模中研の近藤所長、そして私が、それぞれの意見を述べ合いました。しかし、具体的な方策が見出せず、まだプロジェクト化の機は熟していませんでした。


ヒト・ゲノム解析研究


1990年、米国のDOEとNIHが中心になってヒトゲノムプロジェクトを開始したのに伴い、日本においても1991年、文部省が大阪大学の松原謙一先生を代表として創成的基礎研究「ヒト・ゲノム解析研究」を開始しました。日本では、①ヒトゲノム解析、②cDNA解析、③DNA解析技術開発の3つのテーマで研究グループが組織されました。私がすでに大規模cDNA解析を始めていたことから、東京大の吉田光昭先生からcDNA解析班への参加を要請されたので、参加することにしました。


1990年2月、cDNA班の準備会議が京大会館で開催されました。出席者は、班長の吉田先生の他、岡山博人博士(大阪大)、中西重忠博士(京都大)、谷口維紹博士(大阪大)、長田重一博士(大阪バイオサイエンス研)、島田和典博士(大阪大)、菅野純夫博士(東京大)、野村信夫博士(日本医科大)、そして私の9人が出席しました。中西氏、谷口氏、長田氏は、ご自分の専門分野の遺伝子解析には興味を持たれていても、ヒト全cDNAバンク作製に直接関わりたいとは思っていないような雰囲気でした。


帰りの新幹線で菅野氏と野村氏とご一緒することになり、私の提唱したホモ・プロテインcDNAバンク構想について熱く語り合い、お互いがそれぞれの立場でcDNAバンク構築に関わっていくということで話が盛り上がりました。菅野氏は完全長cDNAライブラリー作製の開発に向けて、また野村氏はその後発足したかずさDNA研究所に移り、大規模cDNA塩基配列解析に向けて研究を進めることになり、この出会いがその後の日本のヒトcDNAバンク構築の出発点になったと言えると思います。


菅野氏とお話をしたところ、癌研の所長をされていたご尊父菅野晴夫博士が、山形のご出身ということを伺いいっそう親近感が湧いて来ました。あるシンポジウムの折に一度お目にかかったことがありますが、懐かしい山形弁を聞くことができました。


ヒトゲノム解析研究班の合同会議が開催された時、奈良先端科技大の小笠原直毅博士の発表を聴き、ちょっと気になることがありました。というのは、私が東工大時代に所属していたサークル(デザイン研究会)に、小笠原建夫君という同期がいるのですが、この小笠原君と小笠原直毅氏が、顔や声、話し方までそっくりなのです。食事で隣り合わせた時、もしかして東工大出身の弟さんがいらっしゃいませんかとお聞きしたら、やはりお兄さんでした。


谷口シンポジウム「cDNA Research Today」


1992年1月、谷口財団の後援で大阪大学細胞工学センター主催の第4回谷口シンポジウム「cDNA Research Today」が開催されました。当時、ヒトゲノムプロジェクト関連でcDNAに関する研究を行なっていた世界の主な研究者が招待されました。英国からSydney Brenner博士、米国からJ. Craig Venter博士、Marcelo B. Soares博士、Gregory G. Lennon博士、James Sikela博士、Sherman M. Weissman博士、Michael J. Palazzolo博士、フランスからCharles Auffray博士、日本から池田穣衛博士、洪実博士、菅野純夫博士、大久保公策博士、岡山博人博士、小原雄治博士、加藤菊也博士、そして私の計16名の研究者が3日間にわたって発表と議論を行いました。なお、このシンポジウムの後、ヒト・ゲノム解析研究cDNA班の第2回目の会議が開催されました。


このシンポジウムで、前からお話ししたいと思っていたVenter氏に会うことができました。1991年7月にVenter氏がScience誌にEST (expressed sequence tag)の論文を発表し、特許出願を行なったことがニュースになっていました。私は前年の10月にワシントンD.C.で開催された「8th International Congress of Human Genetics」に参加した時、Venter氏にお会いして議論したいと前もって手紙を出しましたが返事をもらえませんでした。会議に出席した後、NIHで以前お世話になった山田吉彦先生のラボに寄り、当時NIHにいたVenter氏に山田先生から電話してもらいましたが、留守でお会いすることができませんでした。


谷口理事長主催の晩餐会でVenter氏の隣に座ることになりました。そこでVenter氏からNIHでの研究体制やこれまでの経験についていろいろ話を聞くことができました。ベトナム戦争で従軍したこと、血管系の生理学をやっていたこと、10年間レセプタータンパク質の精製をやって人生の貴重な時間を無駄にしたこと、NIHには不満があることなどなど。相模中研が非営利団体ながら特許で生計を立てていることにたいそう関心を持たれたようで、後のThe Institute for Genomic Reserch (TIGR) 設立の契機の一つになったのではないかと思っています。


このシンポジウムでは、Venter氏の話はESTプロジェクトの紹介に留まっていました。その後、日本のcDNAグループの発表に触発されてかTIGRでは完全長cDNAの解析を狙ったようですが、良いcDNAライブラリーが作製できなかったようです。そこで、Venter氏は標的をcDNAからゲノムに変え、Celera Genomicsを立ち上げ、ショットガン方式でヒトゲノムの全塩基配列決定を行いました。さらに、ご自分の名前を冠したJ. Craig Venter研究所を立ち上げ、ヒトの健康のみならず、合成生物学、環境持続可能性など幅広い分野で先駆的な研究を行っています。お会いした当時は、これだけのエネルギーをお持ちの方とは思っていませんでした。


Dr.Venter

このシンポジウムで私が度肝を抜かれたのは、加藤菊也博士の発表です。加藤氏はイギリスのMRCのBrenner博士のところにポスドクとして4年間滞在し、3ヶ月前に帰国したとのことでした。MRCでおやりになった仕事の紹介をされました。まず、発表がいきなり”Although”から始まったのにびっくりしました。さらに研究の話を聴いて、開いた口が塞がらなくなりました。マウス小脳cDNAライブラリーの1万近いクローンの中からサブトラクションによって希少クローン950個を選び、in situハイブリダイゼーションを行なって特徴的な発現パターンを示すもの35個のうち20個について全長塩基配列を決めたというものです。これを一人で成し遂げたというのですから、すべての論文が共著ではなく単著というのもうなずけます( 例えばこの論文)。共著者にBrenner氏の名前が入っていないというのも驚きです。


加藤菊也氏がのちに奈良先端科技大の教授の時、相模中研で私と一緒に完全長cDNAライブラリー作製法を開発した関根伸吾氏(大正製薬)が、菊也氏の研究室に派遣されていたという話を聞き、奇遇と思いました。よく話を伺うと菊也氏は大正製薬の寄付講座の教授でした。


Human Genome Meeting (HGM)


HGM ‘96は3月、ドイツのハイデルベルグで開催されました。この時の参加には二つの目的がありました。一つは、ERATOの研究員に応募してきたRoland Ryll博士と会うことです。面接の結果、採用内定となり、後日プロジェクトに参加することになりました。RとLからなる我々日本人にとっては発音が難しいお名前です。


もう一つの目的は、イギリスのケンブリッジにあるSanger Centerを訪問することです。所長のJohn Sulston博士に見学希望のお手紙を出したところ、OKの返事をもらいました。菅野純夫博士とロンドンのICRFにポスドクで滞在していた原英二博士に声をかけたら、一緒に行きたいということで、ご一緒することにしました。菅野氏とフランクフルトからロンドンへ行き、ICRFの原氏を訪ね、3月27日に一緒にケンブリッジのSanger Centerを訪れました。出張中のSulston所長に代わり、ヒト遺伝学部門のチームリーダーであるStephen Bentley博士が応対してくれました。ファージプラークピッカーやアガロースゲルへのサンプルローディングロボットなどを見せてくれ、ロボティクスの専門家と共同研究体制をしいていることがわかりました。ここが後にヒトゲノムシーケンスのセンターになることの匂いを感じとることができました。


原氏にお会いしたのは、ERATOの研究員候補として考えていたからですが、まだICRFに着任したばかりであるということで断られてしまいました。なお、原氏は東京理科大の小田欽一郎先生の研究室出身で、大学院の時面倒をみていた山口知子さんを相模中研に紹介してくれたというご縁があります。原氏は修士課程を修了した後、海上自衛隊に入隊したが、船酔いするというので、博士課程に戻って来たという経歴の持ち主です。一貫して細胞老化の研究を行い、今も 大阪大学で素晴らしい研究成果をあげておられます。


CSHで開催されたcDNA会議


1998年3月に、米国のCold Spring Harbor研究所で「Full-length cDNA Cloning: A Workshop on Problems and Solutions」と題する会議が行われ、発表者として招待されました。メルクがスポンサーになり、Bento Soares博士(Iowa大)とPiero Carninci博士(理研)が企画されました。Brenner博士とVenter博士を除き、谷口シンポジウムの参加者の顔ぶれのほとんどが揃いました。日本からの発表者は、Carninci博士、菅野純夫博士(東京大)、野村信夫博士(かずさDNA研)、私の4人です。Carninci氏がキャップトラッパー法について、菅野氏がオリゴキャッピング法について、私がキメラオリゴキャッピング法について、野村氏が610個の完全長に近いcDNAクローンの全長塩基配列決定についてそれぞれ発表を行い、日本が完全長cDNAクローニングの分野で先頭に立っていることを示すことができました。


この時に議論の対象として挙げられた問題は、①完全長第一鎖cDNAの合成を阻害する要因、②完全長第二鎖cDNAの最適な合成法、③組織から細胞質mRNAを調製する方法、④ライブラリーの増幅に関わる問題、⑤サイズバイアスのかからないcDNAライブラリー作製法、⑥cDNAが完全長であるかを評価する方法です。この時の会議の時点では、いずれの問題も解決には至っていませんでした。現時点では、ベクターキャッピング法がこれら全ての問題を解決したと言えます。


国際ゲノム会議(Advanced Genomics)


1998年から2年ごとに日本で国際ゲノム会議が開催されるようになりました。ゲノムテクノロジー第164委員会が主催しており、2006年から2016年までは菅野純夫博士が委員長を勤めておられます。最初の頃、毎回、懇親会の席でBrenner先生がお話をされていました。下の写真は、2003年6月に横浜で開催された第3回国際ゲノム会議で、Brenner先生と加藤菊也博士(奈良先端科技大)と一緒に撮ったものです。2001年に「My Life in Science」という自伝を発行された後でしたので、ご著書にサインをしていただきました。なお、Brenner先生は2002年に線虫モデル生物の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞されています。


Dr.Brenner

Brenner先生は、いろいろなシンポジウムや会議でその時に考えていることを話されるのですが、強く記憶に残っているのは、CAPに関する話です。mRNAのCAPに掛けられたと思われますが、CAP(Complete、 Accurate、 Permanent)を備えたデータを作ることが必要であるというお話でした。当時のESTデータの洪水に対する批判とも受け取れました。


Brenner先生には相模中研でも2度講演をしていただきました。我々のデータを見せるために、風呂敷に包んだ資料を持っていったところ、その風呂敷が欲しいと言われるのでお譲りしました。何に使われるのですかと聞いたら、フグを包むのに使うと言われました。Brenner先生は、HUGOよりFUGOに関心がおありのようでした。


2005年、Brenner先生は沖縄科学技術研究基盤機構(OIST)の設立に携わり初代理事長に就任し、ご自分でも研究室をもたれました。その研究室で内藤隆之博士が、ベクターキャッピング法で作製したサンショウウオ完全長cDNAライブラリーの解析を行なっていましたが、論文は出ていないようです。OISTのホームページを見たら何とBrenner先生の銅像が立っています。

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