研究室

山口大学医学部第一生理学教室

Department of Physiology,
Yamaguchi University School of Medicine

テーマ:子宮平滑筋の収縮メカニズム

ことの始まり


1982年11月にドイツから帰国し、しばらく東工大鈴木研で研究生として在籍していたところ、東京女子医大の山田明夫先生から、宇部にある山口大学医学部の第一生理学教室で助手を探しているという話を伺いました。山田先生は山口大学医学部のご出身です。早速宇部を訪れ、第一生理学教室の長琢朗教授の面接を受けた結果、助手として採用していただけることになりました。


第一生理のメインテーマは平滑筋の電気生理で、微小電極を使って膜電位を測定する研究が実施されていました。私のそれまでの研究が人工膜の膜電位に関するものであり、生体膜の興奮性には大きな関心を持っていたので、まさに自分にピッタリの研究内容だと思いました。


助教授の大川博道先生と助手の小笠原俊保氏は農学部出身の研究者でした。当初、大学院生はおらず、全員が居室と実験室を与えられて研究することができました。長先生は教授室にシールドボックスを設置し、自ら実験を行なっていました。助手の主な公務は6月から7月にかけての実習期間に生理学実習を指導することだけで、他の期間は全て研究に費やすことができました。


方針


長先生のメインテーマは分娩発来機序の解明であり、その一環としてラット子宮平滑筋の膜活動と収縮に及ぼす性ホルモンの影響を調べておられました。メスのラットの卵巣を取り除く去勢手術をしたのち、エストロゲンを皮下注射し、大きくなった子宮を取り出し、外液のイオン組成を変えたり、各種薬物を添加した時の子宮平滑筋の活動電位と収縮を測定するというものです。


この分野の研究を行うのは初めてなので、本来ならば過去の文献調査から始めるのが常套手段なのでしょうが、下手に先入観を持たない方が良いと考え、先に実験を行なって、自分なりの仮説を組み立ててから実証していくという方針を取ることにしました。ある程度データが出て論文化する段階で、過去の文献調査を初めました。山口大医学部の図書館には県立医大からの古い雑誌が置いてあり、必要な文献はほとんど入手できました。平滑筋の収縮の生理学に関しては膨大な数の論文が出ていましたが、いずれも現象の記述に留まり、収縮機構まで追求したものはほとんどありませんでした。ただ、記述されたデータは、著者たちの解釈に誤りがあっても、新しい仮説を検証する上では大変役に立つものでした。


経緯


最初に長先生からラットの去勢手術の手法と子宮平滑筋試料の調製法を教わりました。ついで細胞膜の電気活動と収縮活動を計測するための装置を製作し、長先生の実験のお手伝いをしながら、必要な技術を身につけることにしました。


ラットから摘出した子宮を長先生、小笠原氏、そして私が分け合って実験に供しました。小笠原氏はもっぱら微小電極による活動電位の測定に従事し、長先生と私が収縮の解析を行いました。取り出した子宮筋はエストロゲン処理の有無に関わらず、リンゲル液の中で自発性の収縮を起こします。最初、この自発性収縮を眺めながら妄想をたくましくし、自発性のメカニズムを解明したいと思うようになりました。


そこで最初に取り組んだのが、この自発性収縮に及ぼす各種因子の影響です。その結果、エストロゲン処理期間、外液のイオン組成、カテコールアミンの作用など、縦走筋と輪状筋とで異なる反応を示すことを明らかにしました。長先生からは、産婦人科の学位論文に相当すると褒められましたが、その多くの結果は、長先生が妊娠ラットの子宮筋で行った結果と大きく変わらないということで論文化には至りませんでした。


長先生の実験のお手伝いとして最初に行ったのがK拘縮の速度論的解析です。子宮縦走筋を高濃度のKにより脱分極させると外液のCa濃度に依存し拘縮が起こり、外液のCaを除去すると筋は弛緩します。この収縮時と弛緩時の張力変化を解析することによって、子宮筋細胞内でのCa動態を推測できるのではないかと考えました。得られた結論は、予想に反していずれの張力変化も細胞外のCaイオンの拡散律速であるというものでした。


子宮筋細胞内でのCa動態を張力測定によって明らかにするには、単一収縮の張力変化と細胞内Ca濃度の関係を明らかにする必要があると考え、当時わかっていた平滑筋の収縮に関与するタンパク質や細胞膜や内膜系におけるCaイオンの移動を全て考慮した数理モデルを作ることを試みました。このモデルによって、各種実験条件下における張力の経時変化をコンピュータでシミュレートすることが可能になりました。


成果


  • 去勢ラットの子宮縦走筋の膜応答とK拘縮に及ぼすエストロゲンの影響(K80-2
  • ラット子宮縦走筋のCa拘縮の速度論的解析(K82-1
  • ミオシンリン酸化仮説に基づく平滑筋の等尺収縮の速度論的モデル(K84-1

余談


<生理学教室>


第一生理学教室と第二生理学教室は研究棟の二階で隣り合っており、両教室の先生方はまるで同じ教室員であるかのような交流がありました。両教室間にある共有部屋で一緒に昼食を取り、お茶の時間になると集まってお話をしていました。学生の生理学実習は両教室が担当しており、このような緊密な関係があったので、スムーズに進めることができました。各教室のゼミや輪講などにも、お互いが参加しあっていました。


私は休憩時間にこの部屋で皆さんに私の仮説を聞いてもらい、考えをまとめるのに大変役立ちました。ただ、ヘビースモーカーが多かったので、煙には悩まされましたが。なお、第二生理の村上悳教授は、坂田義行講師、森本昭生助手と一緒に体温調節機構を、柳瀬昌弘助教授はネズミの性行動の研究をされていました。村上先生と柳瀬先生には、特に有意義な議論をしていただきました。森本氏は私と同時期に助手になったので、よく飲みに出かけて議論しました。後年、若くして急逝されたと聞き、彼の夢が叶わなかたのを残念に思いました。


私が入った翌年に、眼科の鈴木亮氏が大学院生として第一生理で研究を行うことになりました。これまであまり研究されていなかった眼の毛様体筋を対象としたところ多くの新発見があり、あっという間に4報の論文を発表し学位を取得されたようです。私が米国のNIHにいる時、学会に出席するとかで尋ねてこられました。自信過剰なところがあり、ちょっと人付き合いの点で心配なところがありましたが、今どこで何をしておられるのでしょうか。


<学生実習>


学生の教育において助手としての主な仕事は生理学実習を指導することでした。実習期間は6月から7月上旬までの約1ヶ月間で、14の課題を8人の教官が分担して実施します。私は「神経の興奮」と「骨格筋の収縮」の二つの課題を担当しました。実習書は我々が手作りで作成したものです。神経と筋の実験に使う動物は食用カエルで、九州の業者から送られてきたものをカエル池で飼いました。最初に神経-筋試料を作る手本を示さなければならず、私は毎年14匹のカエルを手にかけたことになります。


学生諸君は皆熱心に取り組み、多くの議論がなされ、楽しい時間を過ごせました。ただ一つ困ったことは、私が生理学をまともに学習したことがないため、神経・筋以外の質問を受けた時、うまく答えられないということです。教科書をしっかり読むようにと言ってはぐらかすしかありませんでした。


<公務>


公務として入学試験の監督がありますが、工学部出身ということで、一度、医学部の受験生の物理の入試の採点をやらされたことがあります。山口の本部に缶詰となって、最初に問題を解くようにと言われ、その後、採点を行いました。医学部の平均点が、他の学部に比べてダントツに高かったことを覚えていま。


助手会への出席も、公務の一つだったでしょうか。驚いたのは、教授会に助手がオブザーバーとして出席できたことです。私も何度かオブザーバーとして出席し、教授会の雰囲気を知ることができました。もちろん、人事の話になった時は退席させられました。


私が着任して3年後、医学部に計算機センターが開設され、NECのコンピュータが設置されました。私がプログラマーの経験があるということで、プログラム相談員に任命され、コンピュータを使いたい方の相談にのることになりました。当時、医学部でコンピュータを使用していたのは公衆衛生の先生ぐらいでしたので、割り当てられる計算機の使用時間が十分余っており、これを有効に活用して、自分の研究のコンピュータシミュレーションを行うことができました。


<輪講>


私が工学部出身であることを知った学生数人がやってきて、輪講をしてほしいと言ってきました。最初に”From Neuron to Brain”を読み、続いて学生からの要望で「医系の物理 統計物理学」を読むことになりました。5人の学生が最後まで付き合ってくれました。たまに村上先生も参加されました。そのメンバーであった木梨達雄氏は、京都大大学院の本庶佑先生のところで学位を取られ、現在、関西医科大学の学長として活躍されています。和田冬樹氏と高岡滋氏はそれぞれ熊本で病院長として地域医療に関わってきました。高岡氏は長年水俣協立病院において水俣病患者の診療に携わってこられ、最近「水俣病と医学の責任」という著書を出版されています。真実を求めて闘っている姿には頭が下がります。


<共通一次試験>


学生といえば、1979年に始まった「共通一次試験」で思い出されることがあります。この試験の前後で、学生の質ががらりと変わったことを感じました。共通一次前は、ものすごく優秀な学生や、成績はよくなくともユニークな学生など、バラエティに富んでいましたが、共通一次後に入ってきた学生は、皆成績は優秀ですが均質になり、目立つ学生がいなくなりました。これも偏差値で志望校が決まるというシステムのせいなのでしょうか。


<生化学教室>


早石修先生のお弟子さんである第二生化学教室の中澤淳教授が企画した特別講義には、多くの早石一門の先生方が呼ばれました。早石先生を初め、本庶佑先生、西塚泰美先生の講義を聞くことができました。特に興味深かったのは西塚先生の講義です。種々のプロテインキナーゼの話を聞き、私が研究している子宮平滑筋にも大いに関係があることがわかり、講義終了後、生化学教室に戻られた西塚先生にいろいろ質問したところ、学生と間違えられて、先生の研究室に大学院生として来ないかと誘われました。


その後、子宮平滑筋の縦走筋と輪状筋についてその性質の違いをまとめたデータとともに、これらの違いもプロテインキナーゼと関連すると思われるので、何らかの共同研究ができないかという手紙を西塚先生にお送りしました。たまたまその年の日本生理学会が神戸で開催されたので、その時に神戸大の西塚先生の研究室を訪れることになりました。研究室を案内していだだき、ちょうどプロテインキナーゼCで面白い発見があったことを、興奮されて話されました。部屋に戻ると黒板にセミナー加藤と書いてあります。なんの準備もしていなかったので大変焦りましたが、子宮平滑筋で縦走筋と輪状筋で全く性質が異なることを例に挙げ、生化学の実験でも生物試料を扱う際には、できるだけ均質な組織を用いるべきであるという話をさせていただきました。


私が相模中研に移ってから最初に行ったのがシュードモナス・プチダ由来のC23O遺伝子の大腸菌による発現ですが、この遺伝子は、当時セントラル硝子から中澤先生のところに派遣されていた高原吉幸氏が中澤先生から譲り受けたものです。高原氏も4月から相模中研に派遣されるということを伺い、宇部を離れる直前に二人で飲みに出かけました。


<産婦人科と小児科>


共同研究はしていませんでしたが、研究テーマが分娩のメカニズムということで、産婦人科の先生たちとの繋がりはありました。長女と長男が大学病院の産科で取り上げてもらい、助手の先生方のお世話にもなりました。長男が生まれた時、担当医の先生に分娩の研究をしているのだからと、無理矢理出産の現場に立ち会わされました。産婦人科の鳥越正教授とは、朝の通勤時、よくバスで一緒になり話をしました。


1982年4月、長女が高熱を出し川崎病と診断されました。大学病院に3週間ほど入院しましたが、生まれて3ヶ月の長男がおり妻が夜間付き添いができず、私が付き添うことになり、小児病棟から生理学教室に通うことになりました。通勤時間2分です。幸い長女は後遺症が残らず、現在4人の子供の親になっています。小児科の担当医だった桑野先生とは、後にヒトゲノムの会議で一緒になり、何事もなく先生もホットしたと話していました。


この年、川崎病が大流行しています。その後、相模中研や国リハで知り合った職員から、この年に自分の子供が川崎病に罹ったという話をよく聞きました。驚くのは、患者数が徐々に増加し、2013年以降は1982年と同程度の患者数になっていることです(第26回川崎病全国調査成績)。罹患率は右肩上がりで上昇し、2018年には1982年の2倍になっています。未だに原因が解明されていないというのも驚きです。


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