研究室

(財)相模中央化学研究所
GE研究室

Genetic Engineering Section,
Sagami Chemical Research Center (SCRC)

テーマ:ヒト有用タンパク質の創製

ことの始まり


1983年、諸事情により山口大学を退職することになり、縁あって(財)相模中央化学研究所(以下、相模中研)にポスドク(博士研究員)として入所することになりました。


相模中研は1965年に日本興業銀行と興銀系列の化学工業企業の支援を受けて設立された研究所です。化学工業において我が国独自の技術を開発する、革新技術の芽を生み出す、産・官・学の研究所でやれないことをやる、基礎研究から応用への橋渡しをするなどを目標として掲げていました。大きな特徴は収入のかなりの部分を特許収入で賄っていたことです。


1980年代初頭、遺伝子工学が勃興し、化学系の企業でも、この分野への参入を図らなければという機運が高まっていました。そこで、相模中研でも1982年からGE研究室(遺伝子工学研究室)を立ち上げ、スポンサー企業5社(東ソー、日産化学、保土谷化学、日本曹達、セントラル硝子)と共同研究が開始されました。各企業から研究員が2〜3人派遣されてきましたが、皆遺伝子に関しては素人なので、遺伝子を扱っている大学研究室で研修した後、送り込まれてきました。


GE研究室は、遺伝子合成、遺伝子クローニング、遺伝子発現の3つのグループから構成されていました。私は、遺伝子発現グループに配属され、大腸菌による高発現ベクターの構築がテーマとして与えられました。なお、遺伝子合成グループは化学合成によってオリゴヌクレオチドを合成するグループです。当時、DNA合成機がまだ普及していなかったので、自分たちで合成する必要がありました。


方針


私は化学出身で生物に関わる研究をやってきたので、DNAを扱うことに拒絶反応はないだろうと思われて採用されたようです。一方、私は将来この分野の研究を行うことはないだろうと思っていただけに、DNAはA、T、G 、Cという4つの塩基からなっていると言った程度の知識しかありませんでした。というわけで、山口大学で生理学研究を始めた時と同じように、本や文献を読むのではなく手を動かすことから入ることにしました。GE研究室の立ち上げを行った沼尾長徳博士の指導のもと、大腸菌の培養、プラスミドDNAの調製、DNA組換え技術などを習得しました。一通りの技術の習得を終え、大腸菌用大量発現ベクターの作製を行いました。


次に、cDNAクローニング技術の習得をするために、半年間の予定で米国NIHに派遣されることになりました。この間の経緯は、別項に記載します。帰国後、習得したcDNAクローニング技術を用いて、リンホカイン遺伝子のクローニングを実施しました。


成果


(1)メタピロカテカーゼの大腸菌用発現ベクターの作製


基本的な遺伝子工学操作の練習を兼ねて、大腸菌用発現ベクターの作製から実験を開始しました。当時、入手できるプラスミドは限られていたので、主に各企業から派遣された研究員が研修を受けた大学の研究室から譲り受けたプラスミドを出発材料として用いることにしました。最初にプラスミドpBR322を母体にして、これにpKB252のlacUV5プロモータを切り出して組換えたpSLK21という発現ベクターを作製しました。発現させる遺伝子としてシュードモナス・プチダのメタピロカテカーゼ遺伝子を選び、pSLK21に組換えてpSLMK1という発現プラスミドを作製しました。


メタピロカテカーゼ(カテコール 2,3-ジオキシゲナーゼ、C23O)はカテコールを開裂し酸素を添加して黄色のα-ヒドロキシムコン酸セミアルデヒドを生成します。メタピロカテカーゼ遺伝子は、山口大学医学部の中澤淳博士のグループがシュードモナス・プチダからクローニングしたC23O遺伝子(Nakai et al, 1983)を譲り受けました。セントラル硝子の高原吉幸氏が中澤研究室に派遣されて研究の対象としていたものです。従って、私と高原氏は同時期に宇部に滞在していたことになり、不思議な縁を感じます。


pSLMK1を有する大腸菌は、大量のメタピロカテカーゼを生産することが示されました。その要因の一つはメタピロカテカーゼ遺伝子のSD配列にあると考えられました。そこでこのメタピロカテカーゼ遺伝子に他のタンパク質の遺伝子を融合したものを発現させることによって、融合タンパク質の大量発現を試みることにしました。その結果、遺伝子合成グループによって化学合成されたサケカルシトニンI遺伝子を融合させることによるカルシトニンIの生産(Ohmori etal., 1988)やメタピロカテカーゼ-プロテインA融合タンパク質(K90-2)の大量生産に成功しました。


(2)リンホカイン遺伝子のクローニング


当時、インターフェロンやインターロイキンなど多くのリンホカイン遺伝子がクローニングされ、商品化が検討されていました。他にもまだ新規リンホカイン遺伝子の存在が予想されており、その中の一つヒト骨髄性白血病細胞を分化誘導して脱がん化する分化誘導因子(Differentiation inducing factor, DIF)をターゲットとすることにしました。成人T細胞白血病ウイルス感染T細胞株HUT-102がDIFを多く分泌していることが知られていたので、この細胞株を東北大学の逸見仁道博士から譲り受けcDNAライブラリーを作製しました。このライブラリーからクローン化したリンホトキシン遺伝子(K89-1)がDIFの正体であることを明らかにしました(Hemmi et al., 1987)。


その後、リンホトキシン遺伝子をプロテインA遺伝子と融合させることにより、リンホトキシン-プロテインAタンパク質を大腸菌内で大量発現させることに成功し、かつ融合タンパク質の状態でリンホトキシン活性があることを見出しました(K90-1)。


余談


<相模中研>


相模中研は当時としては珍しいポスドク制度を取り入れていました。給与は大学の助手クラスに設定されていたと思われますが、社宅と独身寮が完備しており住居費は格安でしたので経済的には助かりました。研究所内に食堂があり、昼食は所員全員が食堂に集まってとり、希望すれば夕食もとることができました。私は毎日ここで夕食をとっていました。さらに、理髪室があり勤務時間中に散髪してもらうことができました。


下の写真にあるように研究所は広大な雑木林の中にあり、道路から中を窺い知ることはできず、近隣の住民からは何の研究がなされているか不気味に思われていたようです。テニスのクレーコート、野球場、4ホールのゴルフコースがあり、毎年、テニス大会とソフトボール大会が開催され、運動不足になることはありませんでした。ちなみに左隣は相模原ゴルフクラブ、裏手(上部)は私が最近いつも散策している「木もれびの森」です。土日は子供たちを庭やグラウンドに放し飼いにして、実験を行っていました。社宅の子供たちの多くは社宅近くのキリスト教会が運営する幼稚園に通っていました。そのような縁で、この幼稚園の運動会は相模中研のテニスコート横の芝生の庭で行われました。また、小学校の低学年の遠足は、緑道を歩いて相模中研のグラウンドまでというコースでした。


相模中研

1999年、近藤所長の退任に伴い相模中研はバイオ関連研究から撤退することになりました。2002年に土地はオルガノ(株)に売却され、相模中研は綾瀬の東ソー東京研究センター内に移転しました。現在、公益財団法人相模中央化学研究所として有機合成化学に重点をおいた研究を行なっているようです。


<良縁・奇縁>


当時、研究所の総指揮を取られていたのは近藤聖博士です。近藤氏が開発したDV型菊酸の特許収入が、研究所の財政基盤となっていただけでなく、近藤氏はGE研究室を初めバイオ関連研究への新しい取り組みを始められました。相模中研は多くの人材を輩出していますが、これは近藤氏の名伯楽ぶりの証です。バイオ関係では、矢澤一良博士、浅野泰久博士、袖岡幹子博士、高橋典子博士、辻智子博士、鹿野真弓博士がそれぞれの分野で現在も活躍しています。なお、浅野氏と袖岡氏は後年ERATOプロジェクトの総括責任者(浅野酵素活性分子プロジェクト袖岡生細胞分子化学プロジェクト)に選ばれています。


私にとって遺伝子分野の直接の師は沼尾長徳博士です。組換え技術の基本について、手取り足取り教えていただきました。また、NIHでの研修についても、沼尾氏の人脈を活かして実施されました。沼尾氏はタンパク質の活性部位の予測法について独自の理論を打ち立てていましたが、志半ばで亡くなられたのは残念です。


GE研究室の遺伝子合成グループを率いておられた大森宗樹氏は、沼尾氏の後、GE研究室の室長として企業から派遣された研究員をまとめて成果を上げられました。その後、相模中研の管理部長となられ、私がERATOプロジェクトを開始した時に、技術参事としてご参加いただき、プロジェクト研究員をまとめる上で中心的役割を担っていただきました。


<実験関連エピソード>


・pBR322の塩基配列

ベクターを構築する際、目的とする構造になっているかどうかを、4塩基配列を認識する制限酵素で切断後、ポリアクリルアミドゲル電気泳動にかけることにより詳細な地図を作り確認しました。今であれば塩基配列を決定することによって確認しますが、当時はアイソトープを用いる必要があり、簡単に塩基配列を決定するわけにはいかなかったからです。その過程で気づいたのは、pBR322のAluの切断箇所がデータベースと比較すると1箇所余分に存在することです。すなわちこの部位の塩基配列が異なっていることが推測されました。データベースが間違っているのか、我々の用いたプラスミドに変異が入ったのか、これ以上追求しませんでしたが、DNAを扱う場合にはこのような問題が起きることをいつも念頭に置かなければならないことを認識させる出来事でした。


・フェノール抽出液へのコンタミ

リンホトキシン遺伝子のクローニングの際、たくさんの陽性クローンが出てきて喜んでいたら、その中身はプローブとして用いたcDNAを有するプラスミドということがありました。原因は、フェノール抽出の際に用いたフェノール/クロロホルム/イソアミルアルコール液にこのプラスミドが混じっていたことです。かなり注意していてもこのような汚染は起こるので、共通に用いる試薬は分注して使うことの重要性を学びました。

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